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2015-02-06 02:53    二つ折り財布ランキング メンズ
 [#小見出し]海を渡った忠臣蔵  赤穂浪士の仇討ちがはじめて芝居になって上演されたのは、討ち入りの翌年で、これは三日後に禁止された。近松門左衛門が『碁盤《ごばん》大平記』と題して浄るりにしたのは五年後である。その後、この題材と取り組んだものは多かったが、義士劇の決定版ともいうべき『仮名手本《かなでほん》忠臣蔵』がはじめて竹本座の舞台にかかったのは、寛延元年(一七四八年)八月で、元禄十五年から四十六年たっている。  この脚本は、竹田|出雲《いずも》以下三人の合作で、事件を『太平記』の世界にもちこみ、主人公を塩谷《えんや》判官と高師直《こうのもろなお》にすりかえて、検閲の目をくぐらせたのである。それまでに、これに似たものが十数種も出ていたというから、新作というよりも集大成と見てよい。  これが中国語に訳されて『海外奇談』として紹介されたのは、清《しん》朝の乾隆《けんりゅう》帝の五十九年(一七九四年)で、日本で初演されてから、これまた四十六年目である。  欧米に紹介されたのは、さらに一世紀ものちのことで、たいてい『四十七人のローニン』という題になっている。はじめてこれに手をつけたのは、フランスの作家ゴンクール兄弟というよりも、兄のエドモンであるが、�ローニン�という日本語には、いまの�ゼンガクレン�と同じように、適当な訳語がないというので、序文でくわしく解説している。エドモンは浮世絵の研究家で『歌麿』『北斎』の著作によって西欧の近代美術に大きな影響を与えたが、彼に協力したのは、林|忠正《ただまさ》という日本人の美術商である。 『四十七人のローニン』は、各国語に訳され、詩の題材にされたり、劇になって上演されたりした。ハンガリーでも、これが上演されて、たいへんな好評を博したときいた。そして�ローニン�というと、赤穂義士を意味するようになった。  アメリカでは、明治十二年(一八七九年)、為永春水《ためながしゆんすい》の『いろは文庫』が、斎藤修一郎という日本の留学生と、当時アメリカにいたイギリスの作家エドワード・グレーの共訳で、『忠義のローニン』と題して、ニューヨークから出版されている。この出版をめぐって、あまり日本に知られていない秘話のあることを知った。  斎藤はハーバード大学に留学していたが、同級生のなかに、のちにアメリカ大統領となったセオドア・ルーズベルトがいた。ルーズベルトは、はじめ黄色人種と机をならべることに不快の念を抱いていたが、斎藤と口をきいてみて、優秀な人物であることを知り、二人はすっかり親しくなった。  ところが、あと一年で卒業というときに、斎藤の送金が絶え、日本にかえらねばならなくなって、ルーズベルトのところへおわかれのあいさつに行った。そのさい、かねてアルバイトのつもりで訳していた原稿を彼に見せた。  これを読んでルーズベルトは大いに感動し、その出版のために、あらゆる便宜をはかってくれた。それがまた、日本人というものにたいする彼の認識を改めさせる上に役立った。のちに新渡戸稲造の『武士道』がアメリカで出版されたとき、ルーズベルトがこれを大量に買い上げ各方面に配ったというのも、こうした予備知識があったからである。  これが、その後の日本の運命にどんなに大きな影響をおよぼしたかは、日露戦争で、奉天会戦後、日本が進むことも退くこともならなくなったとき、ルーズベルトがのり出して、講和のためにひとはだぬいだり、アメリカ太平洋岸の日本人移民排斥運動の緩和をはかったりしたのを見ればわかる。むろん、こういったことは、大統領個人の好意から出たと単純に考えるのはまちがいで、アメリカの太平洋政策につながるものであるが、こういう場合、国の最高指導者の個人的感情とぜんぜんかかわりあいがないと見るのもまちがいである。  彼は大統領を二期つとめ、その間、対欧外交に平和政策をとったというので、ノーベル賞を授けられた。一九一二年、第三党をつくって三度大統領選挙に打って出たが、ついに成功しなかった。  太平洋戦争当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、このセオドア・ルーズベルトの甥である。もしもセオドアが太平洋戦争の当事者だったとすれば、あるいは日米間の破局を避けることができたかもしれない。しかし、このふたりのルーズベルトの背景になっていたアメリカの性格も、アメリカをめぐる国際情勢も、すっかりかわっていたことを見のがすことはできない。  一方、斎藤修一郎は、『忠義の口ーニン』の出版で学資をえて、無事ハーバード大学を卒業、帰国後とんとん拍子に出世して、井上|馨《かおる》蔵相の秘書官から、第二次伊藤博文内閣で後藤象二郎農商務大臣の次官にまでなったが、明治二十七年、有名な�金時計事件�に連座して職を辞し、不遇のまま、明治四十三年になくなった。  [#小見出し]高橋是清の義士観