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null こうした反転、つまり普遍主義を標榜する者が、そのような大義のもとで、特殊な文化や民族を優越的に擁護したり、支持したりしていくという反転を、彼らの主張が、実践の中で遭遇する偶然的な困難によって、現実化しなかったからだとか、歪曲されたからだと考えるべきではないのだと思います。そうではなくて、ここで作動していることこそ、今し方まで述べてきたようなメカニズムです。すなわち、究極的な普遍主義は、まさに自らをひとつの特殊性として提示するものによってこそ、現実化するわけです。しかも、その特殊性として自己提示するというその所作こそが、そのような立場の絶対的な普遍性を保証するわけですから、そのまま普遍主義へと転化し、外部に対して強圧的な、ときに侵略的なものとしても作用しうるわけです。  ここで、今述べたような思想の理論的なレベルでの展開が、時代の社会変容と連動していたということを、よく理解しておいたほうがよいと思うんです。近代化というのは、ずっと西洋化のことでした。思想や文化の面だけではなくて、政治や経済の面でもそうでした。つまり政治や経済の点でも、西洋が諸特殊性を通約するメタ的な普遍性を代表していたんです(図2)。ところで、先に、ファシズムへと向かう社会変動の発端に、第一次世界大戦がある、ということを申し上げましたね。大戦を境に、西洋の意味が決定的に変わってしまう。西洋が、西欧からアメリカに変わったわけですね。つまりアメリカが、西欧に代わって、超越的な普遍性を代表するシートを占めるはずだった。しかし、先にも示唆いたしましたように、アメリカ自身が、そのことをよく自覚していなかった。そのために、もろもろの特殊的な経験可能領域を通約して代表する超越的な普遍性の座が、空席になってしまうわけです(図3)。そうしますと、メタレベルの視点を欠落させたままに、伝統的な西洋までをも相対化する普遍性を提示しようとして、実際には、オブジェクト・レベルの特殊性へと還流していくという世界史の哲学の思想運動というのは、今述べた、近代化=西洋化の意味の社会的変容ということと、対応していることがわかります。 †無としての場所[#「無としての場所」はゴシック体]  先にも述べたように、〈資本主義〉は、経験可能領域を普遍化していく運動でした。西田の「場所」は、そうした〈資本主義〉の運動の極限にある完全に普遍化した経験可能領域を、理論的に先取りするものだったわけです。  普遍的な経験可能領域が同一性をもつためには、その普遍性の程度に応じた抽象性を有する超越性が、必要だった。ところで、僕らが世界史の哲学などを例にとって見てきたことは、経験可能領域の統一性を保証する超越性は、繰り返し、その経験可能領域に内在する一特殊要素へと格下げされるしかない、ということでした。そういたしますと、究極的な抽象性をたもつ超越性が、まさに超越的なままに、経験可能領域の上に君臨するということはありえない、ということになります。要するに、完全な抽象性というのは、端的な不在ということと同じことになってしまうわけです。  だから、西田はこういうんです。「場所」——つまり完全に普遍的な経験可能領域——は、無だと。あるいは絶対無だと。「場所」という普遍的な領域の存在を保証する超越的なエレメントが存立しえないからです。また、西田は、例の「絶対矛盾的自己同一」という論理を使って、場所に関して、「多と一の矛盾的自己同一」と特徴づけている。これは、(1)多であること、それぞれの要素が多様な個別的特殊性のうちにあること、そうした多様性の中の一つであることと、(2)一であること、普遍的であり、したがって必然的に単一的・統一的であるということ、この(1)と(2)の二つのことがまったく同じことになってしまう、という主張です。このように解釈できるとすれば、西田がこの「多と一の矛盾的自己同一」ということで言っていることは、世界史の哲学に即して確認してきたことを、具体的な内容を捨象して、形式的な骨格だけ取り出したものだということがわかるでしょう。 †否定的超越性[#「否定的超越性」はゴシック体]  繰り返せば、西田によると、場所は無です。このことは、究極の普遍的な経験可能領域の原理的な不可能性を含意しているわけです。究極的な経験可能領域は到達不可能なのです。が、ここで今までの話をまるで否定するようなことを言いますが、まさに、この到達不可能性ということを媒介にして、ある意味で、逆説的な仕方で、普遍的な経験可能領域に到達することができるんです。少し議論がこみいってきますが、このことを説明いたします。  完全に普遍的な経験可能領域は、さしあたっては、到達できない。だから、完全に普遍的な経験可能領域は、どのような経験可能領域も本当の普遍性ではありえないものとして、つまりどのような経験可能領域もせいぜい普遍性を偽装するものに過ぎないものとして、拒否され続けること、そのことのみを通じて志向される、ということになると思います。そのことが、奇妙な逆転を帰結することになります。  ただその「逆転」の内実を説明する前に、重要な脚注を付けておきます。これから述べるような逆説的な転回が、社会的な意味をもつのは、社会システムが〈資本主義〉的なものになっている場合に限られます。〈資本主義〉でなければ、普遍的な経験可能領域への執拗で強迫的な志向性は、社会的に承認されたものとして、定着していないからです。〈資本主義〉というのは、普遍性を追求する欲望を無限化したシステムだと定義してもいいと思うんです。ほかのタイプのシステムは、規範の普遍性の水準を常に特定の限界内に収束させることによって安定化する。しかし、〈資本主義〉だけは、そうではなく、普遍性への追求に終わりがない。  さて、このとき、次のような「逆転」が生じうるのです。普遍的な経験可能領域は、どのような経験可能領域をも拒否しつづけることを媒介にして、志向される。そうであるとすれば、普遍的な経験可能領域は、逆説的ですが、まさに「普遍的な経験可能領域の到達不可能性」ということを確認することを媒介にして、到達されうる、ということになるのではないでしょうか。完全に普遍化した経験可能領域は、未だにそこに到達していないということ、さらに言えば、決してそこに到達しえないということ、そういう否定的な表現を媒介にしてのみ、措定されるわけです。そうだとすれば、とても変なことですが、普遍的な経験可能領域が不可能であるということ、このことを表現し、確認してしまうことにおいて、既に、普遍的な経験可能領域に到達したことになるのではないか。言ってみれば、普遍的な経験可能領域に到達できていない、決して到達できない、ということを知っている者が、最も普遍的な境地に立っているということです。  普遍的な経験可能領域の不可能性を確認するとは、どういうことか。それは、「普遍的な経験可能領域——西田はこれを『場所』と呼ぶわけですが——を保証する超越性」が不可能であることを表現するような、否定的・逆説的な超越性を積極的に措定してしまうこと、そういうことによって確保されるのではないでしょうか。  そういう否定的な超越性は、まさにその否定性を示すような超越性でなくてはならない。それには、だから、次のような諸条件が課せられるはずです。第一に、そういう否定的な超越性は、抽象化されることに抵抗する具象的な実在でなくてはならない。通常の超越性は、抽象的なものへと昇華され、具体的な経験の領域から、いわば撤退することによって、まさに超越的なものでありえたわけです。述べてきたような逆説的な超越性は、この超越性のための(必要)条件を否定するものでなくてはならないはずです。第二に、経験可能領域への内在性を表示するような超越性でなくてはならない。超越的な要素は、一般には、経験可能領域の外部にあって、その内的な一貫性や(一定レベルの)普遍的な妥当性を保証するものとして君臨するわけです。しかし、逆説的な超越性というのは、このことの不可能性を示すものでなくてはならないはずです。一口で言えば、それは、内在的であるということが超越的であることの証しとなるような超越性でなくてはならないということです。