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(パーソンのご新造か、この人は)  音吉は力のぬける思いだった。久吉も、すぐには船に乗れぬと知って、ありありと失望の色を見せた。ダウンズが言った。 「ギュツラフ牧師はね、語学の天才だ。今、夫人にお聞きしたのだが、二十か国もの言葉を覚えておられるそうだ」 「二十か国!?」  音吉が驚きの声を上げた。 「そうだよ。二十か国だ。ギュツラフ牧師はね、プロシャ(ドイツ)の方だがね、和英の辞書を持っておられるそうだ。あなたたちが日本人と聞いて、ぜひ日本語を習いたいと言ってね、ま、そういうわけで、マカオでのおせわは、この夫人がしてくださることになった」  三人は改めて頭を下げた。否《いや》も応もない。三人は只《ただ》船長の指示に従うよりなかった。 「お名残《なごり》惜しいこと。くれぐれもお体にお気をつけて。ご無事でお国に着くことをお祈りしますわ」  船長夫人ルイスは、岩吉に目をとめたまま言った。イギリスから乗った女性は二人だった。その二人のうち、ルイスは常に明るく、行動的だった。もう一人の若い女性エミー・ハワードは、常に慎ましく、夫の蔭《かげ》に控えていた。そのエミー・ハワードは東インド会社の支店のある香港《ホンコン》に夫と共に去って行った。音吉は何となくエミー・ハワードとの別れが淋《さび》しかった。ほとんど口をきかず、遠くから眺《なが》めるだけの存在だったが、黒髪のエミー・ハワードは明るいルイスよりも音吉の心を惹《ひ》いた。何れにせよ半年も同じ船に乗っていたのである。その間に、自分でも気づかぬうちに、エミー・ハワードに対して懐かしい感情を音吉は持っていたのだ。  が、今三人の前に、船長夫人ともエミー・ハワードとも全くちがう新たな女性が現れた。その輝く青い目は、人の心を吸いこむような深さがあった。それはルイスにもエミーにもないものだった。強く、しかしあたたかいまなざしであった。      二  ギュツラフ牧師の家は、マカオの西北にあった。港通りの片側に石造りの二階建ての店がずらりと並んでいる。同じく石造りのアーケードの下を、音吉たちはギュツラフ夫人について歩いて行った。背中に長く垂らした弁髪《べんぱつ》の清国人《しんこくじん》の行き来するのが珍しかった。だぶだぶの清国の服も珍しかった。天秤棒《てんびんぼう》に荷をかついで行く物売りもいる。それは日本を思わせる風景であった。と、その荷籠《にかご》の片方に小さな子供を入れてやって来る男がいた。 「おい、音、あの子を売るんやろか」 「まさか」 「わからんでえ。人売りかも知れせんでえ」 「こわいなあ」
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