ビト ン長 財布 タイガ
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null 旧校舎の窓の下にはプールがある。プール開きにはまだ間《ま》があるものの、水は抜かれていなかった。プールサイドの幅が多少あったとしても、勢いをつければ水の上に着地可能、だと裕生《ひろお》は思っていた。  しかし、空中に飛び出した瞬間《しゅんかん》、下を見た裕生はそれが甘い考えであったことを悟った。もう少し助走をつければよかったかもしれない。このまま落ちればコンクリートに激突《げきとつ》は免《まぬか》れなかった。彼は必死で葉《よう》の柔らかい体を抱きしめた。自分はともかく、葉に怪我《けが》をさせるわけには行かない。  その間にも体に取りついた虫たちは、耐えがたいほど熱くなっていた。裕生は落下しながら、悲鳴を上げようと口を開いた——その瞬間、裕生たちが今しがた飛び出した三階の窓から、大きな影《かげ》が後を追ってきた。 (黒の彼方《かなた》)  双頭の怪物は、強い力で裕生たちの体を突き飛ばした。二人の体はその力で、ギリギリのところで斜めに着水する。一瞬、体が水面に跳《は》ね返されたような衝撃《しょうげき》を感じ、次の瞬間冷たく淀《よど》んだ水の中に潜《もぐ》っていった。裕生の口からがぼっと空気が洩《も》れる。彼らは肩からプールのぬるついた底面にぶつかって、反対側のプールサイドへ滑っていった。  裕生たちはちょうどプールの中央あたりの水中で停止した。たちまち黒い虫は次々と彼らの体から離れていった。力なく水面へ向かう虫たちは、意識《いしき》を失っているように見える。  抱きかかえていた葉の体がふわりと水面へ向かい、それにつれて裕生の体も浮かびあがろうとする。葉は水面に叩《たた》きつけられた衝撃で気絶してしまったらしい。裕生は彼女が水を飲まないように、口と鼻を覆《おお》った。それと同時に、力いっぱい肺から空気を放出して、自分の体が浮かぶのを防ぐ——溺《おぼ》れるかもしれないとちらりと思ったが、虫がすべて離れるまでは水の上に顔を出すわけには行かなかった。  再び裕生たちの体はプールの底に沈んだ。空気の抜けた肺がピンポン球《だま》ほどの大きさに縮《ちぢ》んでしまった気がする。みぞおちがぶるぶると痙攣《けいれん》していた。喉《のど》の奥から吐《は》き気に似た息苦しさが湧《わ》き上がってくる。裕生の体から離れた、「ヒトリムシ」の最後の一匹が水面に浮かんでいった。  プールの底にうずくまったまま、裕生は頭上を見る。水面には黒い虫の群れが、まるでゴミのように漂《ただよ》っていた。裕生はほっと息をつきそうになった。彼はプールの底に足をついて、葉と一緒に上へ向かおうとする。 (やっぱり、水が弱点)  彼の思考はそこで停止した——再び、「ヒトリムシ」たちが羽ばたきを開始する。虫羽が水面を力強く叩《たた》き、黒い虫たちは一斉《いつせい》に飛び立った。  裕生の頭が真っ白になる。空気を求めるなにものかが、体を突き破って出て行きそうだった。確かに「ヒトリムシ」は水を避《さ》ける習性を持つようだったが、水だけで倒すことはできないらしい。 (甘かった)  黒い虫たちは水の上をふわふわと漂っている。裕生《ひろお》たちが呼吸をするために浮かんでくる瞬間《しゅんかん》を待っているに違いない。  裕生は今度こそなにも打つ手が残っていないことを悟った。水の中に潜《もぐ》り続ければ溺《おぼ》れ死ぬ。かといって、水から出れば焼き殺される。虫のいない場所を探そうにも、葉《よう》を抱えたまま泳いでいく体力はもう残っていない。  彼は葉の体に回した両手に力をこめる。彼女を守っているというよりは、しがみついて息苦しさをこらえているだけだった。  耳鳴りと鈍い頭痛が彼を襲《おそ》った。視界が周囲からゆっくりと閉じていく。冷たい恐怖が裕生の全身をくるんだ。喉《のど》が痙攣《けいれん》して、最後の空気の一塊《ひとかたまり》がぼこりと洩《も》れる。 (もうダメだ)